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読了:ベスター『虎よ、虎よ!』

SFオールタイムベストで必ず挙げられる古典的な作品を続けて読んだのでその感想を順次書いていきたい。

▼アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』(中田耕治訳 ハヤカワ文庫SF)
これだけ著名で評価の高い作品だと、本国はもとより日本も含め世界中で数多くの批評が書かれているだろうし、またおそらくその評のほとんどが、この作品の傑作たる所以については一致しているだろう。主人公の激しい情念、息をもつかせぬプロットの展開、よく描き込まれた人物造形の巧みさ、機知に富んだ会話を通して読者に伝えられダイナミックに展開する登場人物間の関係、SF的なギミックをふんだんに使って描写される絢爛で壮大なイメージ、そして結末での宇宙論的な広がりと意想外の収束等々、数え上げればきりがない。実際読んでいて、良くできたハリウッド映画を観るような、まさにワイドスクリーン・バロックと評される面白さだった。また、今から約60年も昔の、1956年という時点で書かれたものなのに、SF作品として現在でも十分に楽しめることも驚くべきことに思える。SFという文学ジャンルにとって避け難いこととして、「時代に追い越される」ことがあるだろうからだ。

おそらくそうした点についてもいろいろに作品分析がされているだろうと思うのだが、今回自分が読んで最も感銘を受けたのは、実はそういうところではない。この作品を、単に消費され忘れ去られていくエンタテインメント(それがどれほど良くできたものであったとしても)以上のものたらしめているのは、物語の終盤になって主人公が到達した境地にあると思う。復讐の念に突き動かされ、時には人を殺すことも厭わなかった男は、自らの行為を振り返り述懐して、次のように言う。自己を教育した結果、自分はもはや復讐を誓った「虎」ではなくなり、自分自身を考える動物になって、その結果良心を持つに至った、そして、自分がもたらした破壊、殺戮いっさいの贖罪として、自分は罰せられることを欲する、自分が背負う呪われた十字架を外したい、と。

「罰せられることを欲する」、これはきわめて奇異に響く言葉ではないだろうか。通俗的な理解では、有利な立場に立った主人公は、敵を出し抜くならともかく、わざわざ自分に不利なことをするというのはあり得ない。エンタテインメント作品なら、それは物語の結構の破綻にしかならない筈だ。しかし本作では、そのあり得ないことが作中で起きる。復讐の念に燃えた男がついに仇敵を突き止めたとき、それは自分が最も大切に思う存在であったという運命になす術もなくなってしまう。ここまでは物語の展開として理解できるが、そこで主人公は相手との対話において、不正を糺し悪を滅ぼすため、正義は我にありという思いで今まで自分が行なってきたことは、実は無辜の人びとを死に至らしめることになっていたのだと知らされ、その結果意識の根源的転回=回心を遂げる。すなわち、自分が行なってきたこと、自分という存在を初めて省みる=反省するに至って、自らを嫌悪することになったのだ。そして自分がもたらした不正の回復を求めて、償いすなわち罰を受けることを願うようになる。

これはあからさまにキリスト教的な倫理観と言える(物語のクライマックスが、ニューヨーク中心部のセント・パトリック大聖堂で起きるのは偶然ではないだろう)。キリスト教圏でなければ、こうした発想は決して出てこないと思う。自分がもたらした破壊と殺戮は、物理的には決して取り戻すことはできない。それにも関わらず、主人公はこうした不正=罪の克服である贖罪としての罰を受けることを望む。その意義は、単に自分が悪を為したことを認め、謝罪するということに尽きるのではない。そもそも誰に対しての謝罪なのだろうか。作中の描写では、自分が死に至らしめた人びとの関係者に対する謝罪という風には描かれていない。また、悪しき行ないを為したことによって悪しき存在となった自分を救うための贖罪でもない。もしそうなら、それは贖罪と言いつつ結局は自己救済であって、我欲の変形に過ぎなくなる。しかし本作の主人公はそのいずれでもないように見える。主人公は、自らの行為によって不正(破壊と死)が生じたことの意味、すなわち自分の行ないが罪=倫理的な悪であり、その行為そのものによって罪が世界のうちにもたらされてしまったので、それを克服し、回復するための手段として罰を望む。これは完全に倫理的・形而上学的・神学的世界観になっている。作中では、主人公の科白を通して簡潔に語られるだけだが、敷延すればそういうことになるだろう。

活劇調のエンタテインメント作品の筈だったのが、終盤に来て突如倫理的・神学的テーマが出現してしまったのだ。そしてそれが、単に教条的なもの、作品のイデオロギーとして読者に直接的に押しつけられるのではなく、主人公の自己反省によって、主人公が内的自己意識を獲得することで生じていることがまた興味深い。これは例えば、人工知能が自己意識を獲得するといったこととは違って、「倫理的」自己意識なのだ。しかもそれは、SF的な道具立てで生じているのではない。こうした倫理的内面性を獲得した主人公は、時空を超越して最終的に、物語のそもそもの出発点に辿り着き、自らを特定の時間と空間、状況に確定し、そこから新たな生を辿り直そうとする。一見するとそれは、主人公が獲得した時空を超越する能力からすればいかにも不合理であって、その力を以てすれば作中世界で絶大な権力を握ることも可能なのだ。しかしそれこそが、主人公が願った贖罪の行為なのであり、常人を遥かに超える能力を自ら捨て、謂わば実存的な有限性を引き受けることによって、「人間」であろうとする主人公の意志の実現だった。

小説としての構成から見れば、こうした展開は破格であって、バランスを欠いていると言えるだろう。実際、主人公の自己意識の変容は急すぎて書き込み不足の感は否めないし、解説を見ると、本国では本作よりも小説としてまとまりの良い『分解された男』の方が評価が高いようだ。そちらは未読なのでわからないが、バランスの悪さが本作の欠点かと言うと必ずしもそうではないと思う。高山宏風に言えば、「異貌のSF」とでも評することができるだろうか。SFは、極限まで異化された世界を描くことで想像力と思考を解放する文学的試みであるともし言えるのならば、「異貌の」という形容は冗語であり同語反復だ。しかし、SFという大衆的な娯楽文学の形式にあくまで依拠しながら(手練れの職業作家であったベスターは、「純文学」的であろうとする意識など全くなかっただろう)、粗野で野性的な主人公が内面性を獲得し倫理的な苦悩を抱くまでに意識が発展していく様は、さながらSFという文学形式の約束事が内から突き崩され、ジャンル的娯楽性の枷が主人公の意識の変容とともに克服されていくようにも読めたのだった。

追記
『虎よ、虎よ!』の感想を書き終わったあと、ツイッターを通じて教えていただいた名古屋SF読書会の記録をいくつかのブログで拝見した。想像以上にいろいろな読み方が示されていて、大変興味深く思った。読みというものは多様であることが実感されたし、それはまたこの作品が多様な読みを許容するキャパシティを持っているからでもあるように感じられた。
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